連携支援2課の佐藤です。 前回が「打つ」だったので、私の番は「つ」から始まります。
「続けている」
今年6月から月に2回ほどバスケットボールを続けている。市内のスーパーシニアチームに入れていただいたのだ。中学から大学とこの競技に没頭していたので、腕には多少覚えがあった。シュート、パス、ディフェンスともに当時の記憶も鮮明だ。よって私は入った初日、意気揚々とコートに入ったのである。
が・・・、その自信は即刻粉々になって砕け散った。走れない、掴めない、守れないの三重苦。かつて習得したシューティングフォームすら再現できず、コートを5分程行ったり来たりしただけでスネとふくらはぎが同時につった。簡単なロングパスも気持ちほど足が動かず、もんどりうっての転倒となる。20数年のインターバルは、途方もなく大きかったのだ。
この場合、素直に体力の衰えを認めて一から鍛え直すのが得策である。そう知りながら私は動揺のあまり、こんなさもしい言い訳(胸中)をしたのだ。「これは、本当の自分じゃない」、本当の自分はもっと軽やかに的確に動けるのだと。チームメートからすればめちゃくちゃ迷惑な話だろう。なにしろ実際には、何一つできなかったのだ。「本当は違う」と声高に言ったところで、戦力にならないことには変わりはないのだから。私も自分の思っていることが、無意味なことくらい十分にわかっている。それでも‘本当は’を念仏のごとく唱えずにいられなかった。
冷静になったら気がついた。私がバスケに取り組んだのは学生時代だけ、期間にすれば10年弱である。人生におけるほんの一時の姿を「本当の自分」として大げさに言い回るのは、さすがに言い過ぎになると。
これに限らず、これまでの道のりを考えてみれば、恥ずかしこと、情けないこと、格好わるいことで埋め尽くされている。思い起こしても惚れ惚れするようなことなど皆無、「なぜああしたのか」「何ということを言ってしまったのか」と、浮かんでくるのは後悔ばかりでうんざりする。
60を目前の今、案外その失敗に自分らしさがあり、過ぎてみれば妙に愛おしく感じられるのは不思議である。もしかするとそれは、仕事であれ、バスケであれ、体裁も外聞もお構いなしに、体当たりで何かに取り組んだ瞬間だったかも知れない。もちろん傷を負うこともあるが、それも後に自分を成長させる糧になったりして、長い目でみれば無駄なことなど一つもないと思える。
だからこそ、生きている限り方々で恥をさらし、あちこちに傷をつくることを続けていくだろう。
バスケの練習は月末の木曜日である。まさに皆さんがお酒を飲みながら、くつろいでいるこの時、私はコートで「本当の自分」を手に入れるべく右往左往しているはずである。
―――Blogmasterコメント
スポーツでの失敗を経験した人は多いかもしれません。私のスポーツでの失敗は、テニスのダブルスの試合中、スマッシュを打ち返し、調子に乗ってもう一度やったら顔面に直撃。直後に味方のサーブが背中に直撃しゲームセット、という締まらないオチの試合をしたことです。